■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供3■

1 :日本@名無史さん:2016/12/06(火) 23:04:28.61 .net
豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。

それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?

徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか?

2 :日本@名無史さん:2016/12/06(火) 23:06:30.00

3 :日本@名無史さん:2016/12/06(火) 23:07:47.72

秀吉は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね

4 :日本@名無史さん:2016/12/06(火) 23:08:33.32

石田三成が父の説もあるね

5 :日本@名無史さん:2016/12/06(火) 23:09:35.64

秀頼は、秀吉と似てもにつかず
大野にそっくりの大男だったそうだね

6 :日本@名無史さん:2016/12/07(水) 15:20:17.58

高台院が徳川についた時点でそうだということだろ

7 :日本@名無史さん:2016/12/07(水) 15:20:44.65

>>1
まったくその通り

8 :日本@名無史さん:2016/12/07(水) 15:33:34.46

>>5
茶々の親父の浅井長政が大男

9 :日本@名無史さん:2016/12/07(水) 23:03:05.23

市もデカいしな

10 :日本@名無史さん:2016/12/08(木) 19:04:41.68

源次郎との子じゃろう。

11 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 00:25:03.57

本当に秀吉の子供なら、子飼いの大名が一人残らず徳川につくのはありえない。
もし秀吉の血筋の関白秀次があのままいたら結果は違っていたし
家康も強引な天下取りはしなかっただろうな。

12 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 00:51:59.47

まあ疑う奴はいただろうな。
でも奥ってのはそう簡単に男は近づけないぞ、例え戦国時代でも。

秀吉自身が種無いことに気づいて、それでも後釜を作るために
誰かに間男させた、というなら可能性あるが、
そうでないなら一族撫で斬りのリスクとってまで
茶々に手を出す男はいない。

13 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 12:29:58.14

3pでできたが正解

14 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 18:53:33.83

秀次の子だと思うね、秀吉の子じゃないとするなら

15 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 21:26:33.02

>>13
秀吉「わしゃー上の口攻めるでよー、おみゃー下の攻め口から参れ」
大野治長「かしこまって候。機熟さばいかが致しましょうや」
秀吉「わしにかまうこたーにゃーで。そのまま中に。」
大野治長「心得て候」

16 :日本@名無史さん:2016/12/09(金) 23:40:33.61

>>13
その発想は無かったw

17 :日本@名無史さん:2016/12/15(木) 14:02:11.35

>>12
天下人や大名のところでは戦国時代には独立した奥御殿があったが
江戸時代の江戸城大奥のように周囲と隔絶した場所に女たちを完全に閉じ込め
大奥の女たちが大奥の外へ行くことを固く禁じていたわけでもなければ
一日中男子禁制が取られていたわけではなく昼は行き来自由
安土桃山時代の女たちが完全に隔離された場所に監視されていたのならば
鶴松の出生を揶揄する落書が書かれたりするはずもない

それに茶々が秀頼を妊娠したのは秀吉の朝鮮出兵に同行した
筑紫の名護屋城でのことだしな
この時代の姫君は相当距離移動している

18 :日本@名無史さん:2016/12/15(木) 14:04:10.92

>>14
秀頼が秀次の子なら秀次を切腹させるわけがない
それに秀頼は当初、秀次の娘と婚約していたんだが
姉弟で婚約していたことになる

19 :日本@名無史さん:2016/12/16(金) 11:58:27.49

>>17
そりゃ大河ドラマでは奥と表行き来自由だけど、現実では違うよ。
大友宗麟が秀吉の案内で奥を見せてもらった記録があるが、
それは自由に出入りできることを意味していない。

淀殿の名護屋城移動だってお付きが沢山いるのだから
その目を掻い潜って道中ナニするのは無理だよ。

20 :日本@名無史さん:2016/12/16(金) 18:26:51.95

>>19
大友宗麟みたいな外様大名には秀吉といえども
完全な秀吉の私邸・プライベート空間である奥を自由観覧させないだろう
しかし秀吉の子飼いや正室側室の親族側近ならば別
実際に当時、秀頼が大野治長の子だという噂があった記録が残っている
秀吉の正室側室は男子禁制の空間に監視を付けて
年がら年中閉じ込められていたならばそんな噂は立ちようがない

21 :日本@名無史さん:2016/12/16(金) 21:32:17.80

庶民は大阪城の奥がどうなってるのかわからないので、
普通に大野治長が淀殿を夜這いできると思い込んでる説

22 :日本@名無史さん:2016/12/23(金) 21:46:16.93

お前ら、「河原ノ者・非人・秀吉」(服部英雄)という本を読んでいないのか。

Amazonの本のところで見てみ。

それによると秀吉の母は非人である。秀吉も非人の中で育った。
秀吉の実子は存在しない。
自分に生殖能力が無いことを秀吉は知っていたし、周囲の人間も
秀頼が実子でないことをうすうす知っていた。
当時の大阪城内は風紀が糜爛しきっていた。
その他、
秀吉は6本指で、信長はムツメ(六爪)と読んでいたという話も
載せている。

江戸時代になって風紀が厳しくなるが、中世には寺などに詣でて
参籠するときは男女一緒に寝た。
寺自体女がいくらでもいた。男の僧と尼僧が一緒に暮らしていたりしたし、
女の奉公人が下働きしたり僧の世話をして夜は同衾したりしていた。
城の中も同様で、とくに籠城中などは明日も知れないので、男女は今日からは
考えられないほど簡単に関係をもった。

23 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 03:46:12.09

>>14
仮に秀次の子供なら、秀次は殺されなかったじゃん。
淀や石田三成が秀次をかばうでしょ。

それに秀次の子供なら豊臣の血は引いてるので
ねねも加藤清正たちも離れなかったでしょ。

24 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 03:57:25.18

秀次は勝手にビビって高野山に閉じこもって自害したんだよ!

25 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 05:06:48.54

>>24
三谷ドラマの影響受けすぎじゃね?

26 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 11:16:23.64

>>21
一般庶民はお前だろうw
大坂城は徹底的な男子禁制が敷かれて女は牢屋のようなところに隔離されていたので
大野治長は淀殿に対面できなかったと思ってる馬鹿

27 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 16:30:30.51

糞ジャップ共は全員津波に飲み込まれて死ね!!!!!!!!!!!!!!
ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアップwwwwwwwwwwwwwwwwww

劣等人種ジャップについて語りたい場合は

http://hanabi.2ch.net/ogame/

28 :日本@名無史さん:2016/12/25(日) 23:23:07.27

「大奥の奥」なんていう本を読むと、江戸城大奥でもそれほど男子禁制が
厳格に守られていたわけではなかった。
九才までなら男の子を部屋に置いて可愛がっていてもよかった。
自分の親戚の子とか、自分の手許に置いてペットみたいにしていた。
九才といっても昔は戸籍があるわけじゃなく、12歳ぐらいまで、つまり
毛が生えてくるまではなんとかなったようである。

大奥を見物させてもらった町人の話とかが残っている。
人に連れられて江戸城に入り、大奥に入っていくと老女がおり、挨拶を
すると通してくれた。履き物は履いたままでよい、と言われたそうだ。
さすがに隅々まで見られたわけではないが、ひととおりグルッと回って
出てきたそうである。表向きは男子禁制だが、上の方の女たちが内緒で
観光ツアーのような感じで中を見せ、小遣い取りをしていたようである。
まあ、便所汲みの農民とか職人とか、当然に入っていたわけだから、
厳しいといっても現実的には限界があっただろう。

29 :日本@名無史さん:2016/12/26(月) 03:29:38.84

大奥っていってもかなり広いし、老女しかいない所を見物したんじゃない?
幕末だと将軍を遠くから見られる見学会みたいなものもあったそうな
外国人が遠眼鏡で見たって記録があった

30 :日本@名無史さん:2016/12/26(月) 16:23:27.36

間部(間鍋)詮房
wikiにはこう書いてある。
家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの
詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという …

ウィキの月光院の方を見ると
男子禁制の大奥も、規律が乱れており、月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、
家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代
からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との
間に生まれたなどとも言われるが[要出典]、いずれも俗説で信憑性は低い。

将軍の子供が生まれ、その子が跡継ぎになったら将軍生母ということで西の丸に移る。
大奥にいるはずがないから、大奥で云々というのは嘘である。
大奥に家臣が入り込むなんてことは無理だ。
しかし、二人が西の丸の御殿で一緒に炬燵に入って話をしたりしたことはあるようだな。
だいたい絵島生島の事件はこの時代のことで、絵島は役者を長持に入れて大奥内に
運び入れたりしているから、男子禁制といってもそれほどでもなかった。

33 :日本@名無史さん:2016/12/26(月) 21:27:06.59

普段は建前と内容が違ってたんだろ門限
大奥に限った事じゃなかったんだろうけど

35 :日本@名無史さん:2016/12/26(月) 23:43:10.59

そう言えば、薩摩藩士がどうのこうのってあったような‥
信州高遠の絵島幽閉屋敷を見に行ったときの解説文に洗脳されて忘れてしまってたようだ
小さな家作の座敷一間と目の前の小さな庭だけが許された生存空間で長いこと過したとか

38 :日本@名無史さん:2016/12/27(火) 09:20:46.07

なんて馬鹿なんだ。子供かよ
正面から大奥に男を入れたなんて罪状にしたら
幕府の権威がガタガタになっちまう
そんなことするわけなかろーが。
お前、子供かw

評定所の役人は山村座の座付き狂言作者中村清五郎を拷問にかけ、
その自白にもとづいて次々と関係者の容疑を固めていった。
当初はこの男が一人だけ過酷な詮議を集中して受けた。
この事件の全体は、拷問による中村清五郎の自白に基づいて
描かれたものだ。
生島新五郎は石抱きの牢問で責め立てられ、絵島との情交が
あったと自白させられた。
その自白にもとづき、絵島が三日三晩一睡もさせず便所にも行かせず
正座のまま尋問され続ける現問い(うつつどい)という拷問にかけられた。
尋問のほとんどは月光院と間部との密通についてであったという。
絵島は月光院付きのお年寄りであったから、絵島から二人の
関係を裏付ける供述を取るのがねらいであった。
絵島は生島との関係は頑強に否認。
月光院についても何の自白も得られなかった。

39 :日本@名無史さん:2016/12/27(火) 09:25:05.09

>>37
>大奥の荷物持ち込みには規定がある
大奥に男がもぐりこもうと思えばいくらでも抜け道があったんだよ。
松浦静山の甲子夜話にはある女中つきの下女が比丘尼(尼僧)に変装した
新発意(しんぼっち、少年僧)を大奥に引き込んだ話が載せられている。
大奥には不法侵入者が絶えなかった。判例集である「お仕置き裁許帳」と
いうのにその件の判例が12件のっている。
明暦の大火のあと、大奥の焼け跡から数体の男の焼死体が発見された。
いくら調べても全くの身元不明であった。消火や人命救助のために
駆け付けた者たちではなかった。
>>37
絵島の事件のあと、御錠口の荷物持ち込みに関する規定が変更された。
どう変わったか書いてごらん。

43 :日本@名無史さん:2016/12/27(火) 13:59:24.04

>>41
大奥の事はいいから絵島の証拠を拾ってこいや〜

44 :日本@名無史さん:2016/12/27(火) 14:01:54.85

「証拠が無いのが証拠」ってのは無しでね♪

45 :日本@名無史さん:2016/12/27(火) 14:06:25.94

>>43
歴史スレには必ず一人は出てくるな、こういう馬鹿

歴史学に証拠とか証明とかの言葉持ち込んできたら
速攻高1でバックレ組確定だわな
低知能・低学歴の証拠を自分で出してんだもんなw

49 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 04:33:57.26

警備の問題の話ではない。
明らかに不妊であろう秀吉に
じいさんになってから茶々だけに二連続ヒットしたっというのがおかしい。

これって当時の平均寿命からしたら
天文学的にあり得ない確率じゃないの?

55 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 13:52:39.16

「徳川将軍家十五代のカルテ」を書いた人か
あれは……

58 :52つづき:2016/12/28(水) 19:22:20.42

絵島というのは大柄で江戸前のきっぷのいい女だった。誰かに笄(こうがい)か何かを
盗まれたときに、「盗むほどに欲しいというのであれば、その者が使うがよかろう」と
笑い飛ばしたという話も残っている。姉御肌で面倒見がよく、目下の者に絶大な人気が
あった。生島を大奥に入れたというのも自分の情事としてではなかったと思う。
皆を集めておき(もちろんごく一部の者だちだが)、その中で長持ちを開け、生島新五郎
が登場するという趣向であったと想像する。
今日でいえば、パーティの最中に人気絶頂の頃のキムタクとか福山とかJリーグの
イケメン選手が登場するようなものだった。
皆を喜ばせたくてやったことである。
もちろん役者を大奥内に泊めるなどということはしなかったろう。

59 :日本@名無史さん:2016/12/28(水) 20:19:39.69

吉宗は遺骨を調べてほしいな

61 :日本@名無史さん:2016/12/29(木) 08:26:34.91

上の62つづきという名前は間違い
>>60つづき

その後、増上寺の抗議もあり、六代家宣はこれを要れて、自身の葬儀を増上寺で行わ
せた。その後は増上寺と寛永寺が交代で、ということになっていたが、家継は小さいうちに
死んだので、お父さんと同じ増上寺。
八代吉宗は順番と関係なく寛永寺。吉宗は倹約を説いた手前自分の霊廟を作ることを許さず、
綱吉の墓に合葬されることを望んだ。吉宗は自分が将軍になれたのは綱吉のおかげと思って
いたらしい。
九代家重は増上寺。そのあとは交代で、といっても適当である。
最期の慶喜は将軍職を降りていたこともあり谷中の墓地。
公営墓地を選んで寺に埋葬されなかったのは他にも理由がある。
慶喜の墓は神道の様式なのである。慶喜は神式で葬儀を行い神となった。
明治天皇への配慮だという。

家茂は増上寺だったので調査の対象となり、そのおかげで皇女和宮まで墓を暴かれ
写真まで撮られちゃったのは可哀想だ。

62 :日本@名無史さん:2016/12/30(金) 08:39:25.14

男を長持ちで入れるなどとんでもない話のようであるが、大奥に男を入れるのは
さほど困難なことでもなく、そもそも一定限度で許されたことだった。
姫君やお年寄りの親戚の大名や老中はお錠口から中に入れた。
大名家から大奥に入った婦人のところへは、年中江戸お留守居役の家来が
ご機嫌伺いに訪れた。
老中が新年の挨拶に来ると、女中達が襲いかかって胴上げするのが恒例で
あった。田沼意次は美男で、皆が固くなり手を出さなかったという話がある。
奥医師が入れるのは当然である。
大奥で能や狂言が催されることがあり、その場合は当然役者たちが大勢入った。

九才までの男の子は大奥にいてもよかった。大廊下など腕白盛りの男の子が
自由闊達に走り回っていたらしい。川路聖謨は娘が大奥へ上がっており、長男の
息子二人を遊びにやったことが日記に残っている。
二人は一晩泊まり、上臈お年寄りの部屋にまで入り込み、お菓子などを貰っている。
七才の弟の方は、ふすまを開けて「川路敬二郎なり」と見栄を切ってみせ、大勢の
女中たちの喝采を浴びている。

祖母や母や姉妹が遊びに来るのは普通のことで、これらの者は二晩まで泊まれると
いう決まりがあったという。
大奥というと世間と隔絶された閉鎖空間というイメージであるが、案外外に開かれた
世界だったのである。

68 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 09:36:34.47

茶々は「二の丸殿」と呼ばれていた。
茶々の二度目の妊娠を寧々から知らされた秀吉の寧々への返事

この間は、すこしかいき(咳気)いたし候まま、文にて不申(もうさず)、
文の書き始めにて候。また、二の丸殿、みもち(懐妊)のよし受け給わり候、
めでたく候。われわれは小(子)ほしく候はず候まま、その心へ候べく候。
太閤子は、鶴松にて候つるが、よそへ越し候まま、二の丸殿ばかりの子にて
よく候はんや。(原文はひらがなばかりなので漢字を当てておいた。)

この間は少し風邪ぎみで咳が出ていたので手紙は書きませんでした。
この手紙が今年の書き始めです。
さて、二の丸殿が懐妊したとのこと承りました。
私のような者は子など欲しくないので、(寧々も)その心得でいるのがよろしかろう。
私太閤の子は鶴松でありましたが、この世からあの世に引っ越して行きました。
(今度懐妊した子は)茶々一人ばかりの子にしたらいいのではないでしょうか。

「茶々一人ばかりの子」とは何なのか。それがポイントである。

71 :日本@名無史さん:2017/01/02(月) 14:58:44.66

家の存続のためにはそれも有りかとは思うけど、それならもう少し秀吉に似た男を選べば良かったんじゃ?
予想以上に秀頼がスクスクと背が伸びたのが淀の浮気が疑われた原因の一つ

81 :日本@名無史さん:2017/01/03(火) 23:45:44.97

永井路子も杉本苑子も言っていた事

「たとえ誰の胤でも秀吉の室の茶々が産んだからには秀吉の子」

85 :日本@名無史さん:2017/01/05(木) 00:15:25.95

フロイス「日本史」は、「関白の愛を受けていた妾が病気になって自分の家にもどって
療養した。秀吉より黄金一枚を得、自由行動を許されたものと考えた。病気が治って
ある僧侶に嫁ぎ、一子をもうけた。挨拶に訪れたとき、秀吉が激怒した。夫、子ども、乳母、
母親とともに竹鋸引、火刑によって殺された。」と記している。

この事件は「時慶記」、文禄二年(1593)十一月四日条にも記されており、
女性は「太閤に被召置候女房」で、「お暇申さず出で候、男持ち候」つまり
秀吉に無断で結婚したと明記されている。その女性の子と乳母は煮殺され、
女性本人、夫、親は竹鋸で引き殺す刑に付されたとあり、
フロイスの記録と一致する。
この事件はまちがいなく実際に起きたことなのである。

何故秀吉が激怒し、このような厳罰に処したのか。
この女性が秀吉の側室だとしたら、大坂城にいたときは懐妊せず、嫁に行ってすぐに
懐妊したことが秀吉を怒らせたとも考えられる。
しかし、文禄二年(1593)十一月四日という処刑の日を考えると、また別の味方を
することもできる。この歳の八月にお拾い即ち秀頼が生まれているのである。
この女性は秀頼の懐妊出生について何かを知っている人間だったのではないか。
この時期に大坂城の奥にいた女たちは外に出さない方針だったのではないか。
拾いの誕生は八月三日、そうすると受胎の想定される日はその前年の十一月一日前後。

91 :日本@名無史さん:2017/01/11(水) 03:11:04.64

秀頼が生まれた後も、秀次が側室を入れるってのは止めた方が良かったんじゃない?

95 :日本@名無史さん:2017/01/12(木) 07:31:23.08

秀吉は秀次に、子種のない自分に代わって高貴な娘との間に子をもうけたり、
有力な大名の娘との間に子をもうけるという成果を期待していた。
それによって豊臣の血が高貴になり、豊臣一門の子孫繁栄がもたらされ、
大名との紐帯が強められる。

秀次は、この期待に半ば応え、半ば反したといえる。
大勢の女を集め、子をどんどん作るということはやった。
しかし、生まれた子の母親は大した女たちではなかった。
たとえば長男千千代丸の母・於和子は日比野下野守の娘である。
家臣筋の身分であり、豊臣の血を高貴ならしめたとはいえない。
次男百丸の生母も尾張国星崎城主山口少雲の娘で家臣筋。

一の台との間に子ができることを期待しただろうが、一の台は処刑時に34歳。
当時としては子を産むのは困難な年齢。
秀次はそういう年上女に夢中になっていた。

秀吉は自分たちの孫(継子の子だから一応孫だが)の血筋を考えて
これらの者が豊臣の屋台骨を支えていくのは無理と考えたのかも知れない。
(たとえば生母の実家が大大名なら豊臣を支える支柱になる。)
あるいは、自分が生涯かけて築いたものが、たいした血筋でない者たちの
ものになり、その生母の実家の者たちがときめくことになることがアホらしく
なったのかも知れない。

100 :日本@名無史さん:2017/01/12(木) 18:23:15.34

>>96
家康は下マン好みで身分の低い後家などが好きだった。
こういう女は丈夫でポンポン子供を産む。
昔でも農婦など40歳ぐらいまで平気で産む女はいた。
しかし、定期的に何人も産んでいるような状態でないといけない。

身分の高い女なかんずく公家の女などは体が弱い。
江戸時代、大奥でも「褥下がり」(おしとねさがり)という
三十になったら将軍のお相手を辞退する習慣があった。
妊娠すると難産で死んでしまうおそれがあるからである。

一の台に子が出来たら秀吉は喜んだかも知れないが
駄目だった。経産婦とはいえ産んだのは13年前。二十歳の頃。
公家の娘なんだから頑強なわけないし。

193件をまとめました。
最新情報はこちら